長野県立科町へ 旅する移住

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笑顔が返ってくる仕事を親子二代で

村上 博之さん・ 育子さん/村上 哲也さん・千賀子さん

移住した年
1980年
年齢
60代、30代
家族構成
親、子、孫
どこから移住
南佐久郡南牧村
職業
ペンション経営

南北に長い立科町は里山エリア(標高約700M)と高原エリア(標高約1500M)から成り、高原エリアの観光地「白樺高原」には毎年多くの観光客が訪れます。 1980年にこの白樺高原へ移住し、ペンション「おやまのえんどう」を開業された村上さんご一家。40年経った現在は長男の哲也さんに引継いで店を切り盛りしています。この地へ移住された親世代の博之さんと育子さん、そしてこの地で生まれ育ち、店を引き継いだ子世代の哲也さんと千賀子さんに、親として、子としての目線でお話を伺いました。

ここへ移住することになった経緯を教えてください

(博之さん)妻の実家が静岡の御前崎で100人規模の民宿をしていて、そこで3~4年ほど手伝いをしていました。当初は継いでほしいと言われていましたが、結果的に妻の弟が継ぐことになったので、私たちは出身である長野に帰って宿を始めることにしました。
御前崎での経験は大きく、接客を始め120人規模の宴会の企画やチラシ配りなど、様々なアイデアが結果につながる実感を持つことができました。妻の実家の母が根っからの商売人で、絶対に一番客が入っていないと嫌だという方でしたので、そこで鍛えられましたね。私もそういうタイプですから(笑)朝2時まで宴会をしてそれからお皿洗いをして、そのまま寝ずに5時から朝ご飯を作るという生活をしていました。

物件を探すに当たって、最初は清里、斑尾高原、白樺湖なども回りました。縁あって今の土地を紹介していただいたのですが、国定公園内にあり、開発されすぎることなく自然を味わえる観光地としてやっていけると思い、場所を決めました。ペンション名の「おやまのえんどう」はマメ科の高山植物の名前です。当時周りは洋風な名前が多かったのですが、あまり洒落た名前ではなく、親しみやすく、一度聞いたら忘れられない名前にしたかったんです。それが1980年(昭和55年)で、26歳のときに始めました。

一言では言い尽くせないと思いますが、立科町の暮らしで良いこと、大変なことはどんなことでしょうか

(博之さん)良かったことは、当時は今以上に人間同士の付き合いが密にあったことです。来てすぐの頃に民宿組合というのが立ち上がったのですが、声をかけてもらって毎日のように皆で呑んだりして、とても楽しかったですよ。カラマツの下草刈りや区の運動会なども皆でやりました。当時は誰がどこにいるか皆が分かっていましたが、今は集まりも減ってきてしまい、知らない人も増えてきたので少し寂しく感じます。
 大変なのは買い出しや子どもの通学ですよね。現在も同じですが、平野部との標高差は800Mほどありますので、どこに行くにも片道最低30分は下りて行かなければなりません。日常の買い出しや子どもの通学や行事、特に急病ににかかったときはやはり大変でしたね。

(育子さん)子育て真盛りの時期でしたが、子どもにはなかなか構っていられませんでした。子どもたちは、お客様の部屋に入って一緒に遊んでいたりしましたが、今ではそのときのお客様が三代続けて来てくれていて、お互いの成長を見るのがとても楽しみですね。アルバイトも二代続けて来てくれたりしています。

(哲也さん)私が大変だったのはやはり通学と休日の手伝いですね。保育園や学校もバスで片道30分下りた場所にあり、立科町の子は3歳から一人でバスに乗って通います。友達もいたので大変と思ったことはありませんが、行事があったりすると親が車で送ってくれたので、今となっては親は大変だったと感じています。さらに、休日に学校の友達が遊びに行っていても自分は手伝いをしなければならないのが一番の苦痛でしたね。ただ、虫取り・川遊び・雪合戦・スキーなど、ここでしかできないことはたくさんやりましたよ。当時は山にも子どもが多かったので、上の子たちも一緒に遊んでくれて、今ではそれが良かったと思います。

引継ぎまでの経緯を教えてください

(哲也さん)もともとペンションを継ぐつもりは全くありませんでした(笑)一般の家庭とは違い休日もずっと手伝いをしていたので、高校卒業後はここから離れたかったんです。
でも大学を出て社会人になって初めて、ペンション業の良い部分が見えてきました。前職は東京で営業をしていたのですが、嫌な顔をされることが多い営業とは違い、旅行業は皆がリラックスしに来ているので、笑顔で接すれば笑顔が返ってくる。大学や社会人の頃も頻繁に手伝いをしに帰ってきていたのでそのように気づくこともでき、2010年、28歳のときに帰ってくることにしました。
幸いにも、帰ってきたときに独りじゃなかったのはやはり大きかったですね。子供のころ遊んだ友達や先輩・後輩がいましたし、その方たちに誘ってもらった消防団では、近所の多くの方と知り合うことができました。10年を経て帰ってきて、立科町は相変わらず良いところだと思いました。水も空気もきれいだし、人も優しくて、いい意味で他人を気遣ってくれる方が多いと思います。

(千賀子さん)私の実家も自営業だったので、生活スタイルはイメージができました。大学の頃はアルバイトで接客業も経験していたので、仕事にもスムーズに慣れることができたと思います。また、水がとても美味しく、子どもたちを自然の中で自由に遊ばせることができるのはすごく良い環境だと思います。ここは主人の地元なので、主人の知り合いのお母さんたちとの輪にも比較的入りやすかったです。子育ては、保育園がお休みのときが一番忙しい仕事なので、あまり構ってあげることができませんが、姉と弟で一緒に遊んだり、お客様に見てもらったりと、周りの方々に支えていただいています。

今後の夢や、読者へのメッセージをお願いします

(博之さん)これからの人には山の文化を残していって欲しいですね。昔あった運動会やお祭り、盆踊りなど、地域住民の寄り合いが今は全くなくなってしまいました。また、ここに来たら積極的に仲間を作って、都会にはない人間と人間の付き合いをやっていけば良いと思います。皆で祭の準備をしたり、草刈りしたり。そういうところから顔なじみになれば、何か困ったときに面倒を見てくれます。暖かい人間関係を持つ地域を続けていってほしいと思っています。

(哲也さん)ここでは本業(ペンション)の他に、りんご狩りツアーやスキーインストラクタ―など、多くの副業があります。また消防団や自治会、コミュニティ、ボランティア活動もあります。ただ、これらは広く募集しているわけではないので、新たに移住された方には、自分から積極的に参加してほしいと思っています。また、私は子育て世代ですが、同年代の方にもぜひ来てほしいですね。地理的には不便かもしれませんが、大自然で暮らすこと、親子で多くの時間を過ごすことは、都会ではなかなかできない貴重な環境だと思います。